ありのままで

父の死~壮絶な幼少期を送り笑ってしまうくらい波乱万丈の思春期から成人となり目指した看護師への道。その後もまだまだ濃厚な試練と戦っています。

人任せ

父が亡くなってから、私は妹とその後の処理に追われました。

役所へ死亡届けを出し諸々手続きをして、公共料金支払い変更手続きや各種保険会社に連絡。

実家もかなり荒れており、片付けに取り掛かりました。

ここまでは誰しも同じかと思います。


父は在日韓国人の為、韓国大使館に死亡届けを出さないと罰金が発生する事を知り私と妹は焦ります。


妹に関しては誰なの?って言われた人が父だと知り「私って何?」と少し不安定になっていました。


となると動くのは私しかいません。


私も調べて大使館に問い合わせるも片言でよくわかりません。

ネットから入っても途中からハングル文字がズラリと並び訳がわかりませんでした。


しかし限られた2ヶ月で手続きをしなくてはならない。

必死でした。




警察も大使館に問い合わせて父の身分証明の照会をかけてくれていました。


やっと大使館から連絡が来て父の戸籍を突き止めると遺体引き取りの連絡が入りました。

父が亡くなって1週間経っていました。


父の遺品を受け取り父と対面しました。


妹は「なんか……………怖い……。」と足がすくんでいました。

妹は父の遺体は見ず警察の対応しかしていなかったので不安気でした。


私も不安でした。


警察の別棟にある安置所に案内されます。

徐々に白いシーツを掛けられ横たわる遺体が見えてきました。

警察の方が顔に掛けられた布を外します。


私は父の顔を見て驚きました。


死因は「急性心虚血性疾患」でした。

心筋梗塞です。

あの寒さで動きヒートショックを起こしたのです。

それも死亡推定時効は私と電話した3時間後でした。


かなり急でもあり、相当痛かったし苦しかったと思います。


それなのに、物凄く穏やかな死に顔でした。

私は開口一番「ごめんね……。」と言いました。

母は「何で?ありがとうでしょ?」どういう意味で言ったのかは今だ不明です。


警察の方も

「私も様々なご遺体を見てきましたが、こんなに穏やかなお顔をされているご遺体は珍しいです。」と言っていました。


様々な業を全て消し去るように、険しい顔で寝ていた父ではなく穏やかな父がそこにはいました。

全て捨てて逝ったように見えました。


葬儀は直送でした。

父は身内らしき人に母からお金を巻き上げ貸すも付き合いは切れ、酒癖の悪さから私の身内も関係が途切れていました。

すなわち呼ぶ人がいなかったのです。


葬儀屋さんを妹が探し、警察署まで遺体の引き取りをお願いしました。


死後約2週間で父をやっと荼毘に付する事が出来ました。


この時も兄は「仕事あるから」と顔を出しませんでした。


どこまでも……どこまでもな人間です。


父の遺体を発見した日、警察と夫が遺品を探していると

「夫くんへ……サラへ」とお正月のポチ袋を見つけたと後から夫に知らされました。


距離を取っていたのに、こんな気遣いして!

昔散々地獄を見せて来たくせに!


私は胸が苦しかったです。


父の異変を察知して、亡くなるなら皆で看取りたかった。

しかし自宅のトイレで孤独死をさせてしまった。


母と引き離す際に、そうなる可能性は高いと思っていました。

だから安否確認の宅食にもした。

しかし宅食サービスは父が居ないと思いドアノブに食事を3回分ぶら下げて帰ったのです。


「出かけてると思った」そう言われました。


父はデイサービスから帰りずっと調子が悪かったと推測出来ました。


もう誰も責める元気など残っていませんでした。


警察はデイサービスがすぐに救急要請しなかった事に不信感を抱き問い合わせると言っていました。


私はケアマネにその旨伝えるとケアマネは

「あ、慣れてるんで大丈夫です。」と返答が返ってきました。

慣れている……………。


それはそれはよう御座います。


しかし遺族に発する言葉でしょうか?


とんでもないケアマネがいるものだとガッカリしました。



葬儀を終えて父の遺骨と位牌を実家に持ち帰り父の部屋に置き私たちは帰宅しました。


次は韓国大使館……。

私は仕事中や休憩中ありとあらゆる所へ連絡して死亡届けを出す手続きの仕方を模索していました。


そこでやっと1人の行政書士に行き着きます。


行政書士の方はすぐに快諾して頂き、私が窓口となり様々な手続きが開始されました。

日本の書類と韓国大使館の書類に一部相違があれば、妹しか市役所で書類を取れなかった為、妹にも協力してもらいました。


行政書士に依頼する金額については母が負担してくれました。


しかし、ある日母が言います。

「高くない?おかしくない?」


一般的に平均額なのに……。


また兄でした。

兄が高いのおかしいだのグチグチ言い始めたのです。


「なら!自分たちでやりなさいよ!こっちは仕事中だろうとやり取りしてるって言うのに!いい加減にしなさいよ!!!」


私はブチ切れました。


ところが、そんな事で動く人達ではありません。


文句だけ言って結局は私と妹で動くしかありませんでした。


ありとあらゆる書類が届き、いざ韓国大使館で行政書士と待ち合わせをし手続きをとる日を迎えました。


父の死後1ヶ月半が経っていました。


申請もスムーズに済み妹は帰りの道中、安堵しきった顔をしていました。

「私1人だったら出来なかった……。ありがとうお姉ちゃん。」


「そんな事ないよ。色々動いてくれて助かったよ。こちらこそありがとう。」


「私さ、なんの為にあの2人から生まれてきたんだろう?」

妹が言います。

父は妹が19歳の時1度認知をしていた形跡があり、妹が結婚したあたりで認知を取り消していました。


何を意味していたのかはわかりません。


そして父は母と出会う前に結婚していたと言っていましたが、その記録はなく事実ではないと知りました。


父は幼い頃、両親が他界しており身内をたらい回しにされました。

悪烈な環境で育ち、大阪で仕事をするも上手くいかず、従兄弟を頼り上京、従兄弟の経営するスナックで長年仕事していた中フラフラと飲みに来た未亡人の母と出会ったようでした。



滅茶苦茶な出会い、、、

そんな中妹が誕生しました。


妹は今更知る事実に戸惑っていました。


時折妹は泣きながら電話もしてきました。

「もうさ、、、もう私どうしたらいいの?」と。


私は決まって言います。

「あなたが妹で私は少なからず救われた。あなたがいたから姪っ子達に出会えた。あなたには守るものがある。もうそれだけで充分。他に理由必要?」と。


妹は早くに離婚しており、母子家庭で踏ん張ってきました。

私もよく姪っ子達を預かり妹にガス抜きをさせていました。


「私にとっての実家ってお姉ちゃんちかも(笑)」


そう言わせた父と母の責任は重いと思います。


しかし妹には前を向かせないといけません。


「私……いや、うちはあなたが必要だから。大切だから。」と伝え続けました。


兄は父の暴れる時も入院も引越しも、

父が亡くなって火葬の際も、その後のすべき事も

その全てをケチだけつけて人任せにしました。

一切立ち合う事も力を貸すことも無く……


私たちに押し付け逃げました。


私は心底兄を軽蔑しました。


確かに父は私たちに酷い事をしてきました。

無抵抗な私たちは沢山苦しめられてきました。


正直に言うと「死ねばいいのに」

そう思った事も事実です。


でも、そんな人でも一緒に暮らしていた以上は、

ご飯を食べさせて貰っていたのなら、

後処理1つ出来ないのなら、

ケジメとして火葬は立ち合って欲しかったです。


残念です。




しかし、父亡き後も兄はまたしても、やらかします。。。