ありのままで

父の死~壮絶な幼少期を送り笑ってしまうくらい波乱万丈の思春期から成人となり目指した看護師への道。その後もまだまだ濃厚な試練と戦っています。

反抗期

夫が帰って来て、私が夜勤を始めて間もなく長男の言動に変化が現れてきました。

それも当然です。

息子はパパが帰って来るまで頑張って、帰って来たら沢山甘えたかった。


それなのに、急にママは夜勤に出てしまう。


夫は幼い頃の息子たちのままだと舐めてかかり、物の言い方も若干雑になります。

子供たちは空白の2年間信じられない早さで成長した事にピンときていない夫にも問題ありです。



全く悪意は無いのですが、息子たちにしてみたら急に帰って来て優しいパパがいるんだろうと期待していたのに雑な物言いをする。

それも私が夜勤の日「のみ」です。


小4、小3にもなれば「はい?」となるのは当然です。


両親に純粋に甘えたかったのです。


まだ、その事を本人たちも表現できません。


だから反発をする。


その反発に夫は戸惑うと共にショックで怒りとして表出するのです。


俗に言う早めの「反抗期」です。


でも、反抗期という表現は私も好きではありません。


自我が芽生えアイデンティティが形成されているのです。

成長の証でもあります。


私は嬉しかったです。


但し、夫は私が居ない時に敢えてトラブルの火種を巻きます。


その事については、今中学生となり更にパワーアップした息子たちを理解しようとしない夫に注意してみたり、

説明してみたり……。

それすらも「だからってそんな言い方良いのか?」と私に言ってきます。

私もこう返します。

「何も間違ってないなら、私がいる時にやりなよ。コソコソ私の目がない時にそんな悪態つくから子供たちだって反発するんだよ。いい?子供はあなたの使いでもなければ奴隷でもない。あなたの勝手なタイミングで押し付けるのは間違いだからね。」と。



私は夜勤から帰り息子たちや娘に会うと沢山誉めます。

ママが居なくてもうちの事、自分の事やってくれてありがとう、と。


「何でママが夜勤しないといけないんだよ!」


「また夜勤?」


「親父どうした?頑張らないのかよ!」


言いたい放題です(笑)


勿論、私も子供たちと衝突をします。


でも、必ず子供たちはすぐにそーっと私にすりよって来ます。

何故か?


衝突しても私は子供の言い分も最後まで聞きます。

話の腰も折りません。

私が話する時も、まくし立てたりはしません。


それでも思春期の息子たちはイライラして物を叩いたりして私を威嚇してくる事もあります。


私はそんな時も静かにゆっくり話をします。


そして考える時間を与えます。

クールダウンの為です。


時間を与えて

「ご飯だよー」

「アイスは?」

と普通に声をかけます。


息子たちはこの段階で更にクールダウンします。


「あーあ。ママ傷ついたなぁ」


「…………。」


「ごめんなさいが聞こえないぅぅぅ!」


「はい、ごめんなさい」


終わります。



夫は反発に怒りで返す


私は反発に一旦身を逸らす



この違いだと思っています。


子供は自分の駒ではない、1人の人間であり尊重するべきだと夫に言っています。


子供たちには、パパはあなた達が心配で言っている。

パパの立場からの見方も考えてみて。と言っています。



どちらにも言い分があります。

それは、どちらも悪いということではないのです。


それを、どちらが悪いかジャッジしろと両者が興奮して私に詰め寄る事もしばしばあります。


そんな時は、両者の言い分にそれぞれ突っ込みます。


「だからそんな言い方して良いの?」


「だからそんな対応して良いの?」と。


毎回このやり取りで両者は落ち着きを取り戻します。


ちょっとしたズレなんですよね(笑)


ちょっとした声のかけ方でお互い不快な思いをしなくて済むんですよね。


思春期です。

自立してきているのです。


挨拶もそこそこにスマホいじってる位良いじゃん、ほっときなよ。

やる時はやるんだから良いじゃんって思っています。


両者の要求が満たされないからぶつかるのだから、こちらがタイミングみて要求すればいいだけだと思います。

負の連鎖

父は家族から誕生日を祝って貰うことなく2日後他界しました。


ふと父がいた部屋を見ると亡くなる前日デイサービスで誕生日を祝ってもらい、ピースをして満面の笑みで写真に映る父がいました。


どんな気持ちでこのテーブルに置いたのかな?


そしてカステラが1口かじりついた跡

タバコの吸殻

眠剤の空


……眠れなかったんだね……。


49日を迎え納骨に行きました。

樹木葬です。


勿論兄はいませんでした。

「仕事だから」


そしてお寺で言われます。


「魂の移し替えは?白い位牌から本位牌にしないと……」


「………………………。」


黙る母たち。



え?



それも私がやるの?

違うでしょ?

やってよ……。



母にお願いするも

「前のパパの時も全部会社がやってくれたから、この手の事は分からない。」と言います。


実は数年前、立て続けに母の兄と弟が自宅で孤独死しています。

その時も私は母から電話を受けて

「すぐ警察に行ってもらって!」

と無理矢理連絡させ発見に至りました。


その際も、位牌などは持たず火葬し納骨していた為、本当に母もわからなかったようでした。


結局、位牌を移そうと話はまとまりましたが、

一転します。

姉が用意した小さな仏壇と位牌を見て兄が

「この家に置くな!」と言い出したそうです。


では何処に置くか?


やはり実家しかないのです。


でも実父の仏壇もあります。


家に仏壇は2つはいらないと父の仏壇と位牌は処分されてしまいました。


その事を私はだいぶ経って知らされました。


妹にLINEが来て

「散々嫌な思いをしてきた。申し訳ないが家には仏壇などは置かない。」とメッセージが来たそうです。


私はそれを知り絶句しました。





皆が落ち着きを取り戻した頃、母と食事に行きました。

母は溜息まじりにボヤいてきました。


兄が執拗いと。


何時間も説教や怒鳴られるのだと……。


まだ兄はその時点ではパートはしていました。

清掃員のパートです。


帰宅するなり母にくどくど言っていたようです。


姉も続けて言います。

「一緒にいたくない。」と。


母の脳裏にどの程度焼き付いたのかは不明ですが

「サラもこんな酷い目に遭っていたんだね……。」と。


え?嘘でしょ?

あれだけ怒鳴られ殴られた毎日だったのに気づかないとか有り得ない。

ないわー………。






ないわー………。



そして父の納骨を期に母達は実家に戻ってきました。



これが運の尽きだったのか?



兄は再び働かなくなりました。

理由は「足の裏が痛いから」


舐めてますね、相変わらず……。




すると朝から晩まで母に嫌がらせをします。



同時期に母は病院でMRIや検査を受けて認知症と診断されました。


母はすぐに忘れてしまいます。

それをいい事に兄の醜い暴言が続きます。


ある日、母から電話が入りました。

家族で車に乗っていたので電話はBluetoothで車内に丸聞こえです。


「サラ?サラは電気料金は引き落としにしてる?」


「うん、引き落としだよ?」

「だよね、普通そうだよね?……そうだって。」


傍にいる誰かに「そうだって」と母は伝えます。



その時です

「おめぇはバカか?馬鹿野郎!」

と聞き捨てならない声。


兄の声です。


え?車内にいた子供たちも驚いています。


夫はみるみる怒り心頭の様子。

私は唖然。


電話は切れてしまいました。


夫はすぐに電話をかけ直します。

「もしもし?お兄さんに代わってください!」


「あー、もしもし?」と兄。


「何してんですか?今お母さんに何て言いました?おかしくないですか?」


「……チッ!!わかってんだよぉ!でもイラつくんだよぉ!」


「違うでしょ?俺前にも言いましたよね?守って貰うんじゃなくて守る側ですよね?!!」


「あ〜〜!わぁーったわぁーった!それだけ?」


「いや、俺の言ってる事わかりますか?おかしいですよ、さっきの言い方は!」


「……ハァ……。わかったよ、はいじゃあ。」


電話は切られてしまいました。


「ふざけ過ぎだろ?!」


夫は随分成長しました。(笑)


その日を境にピタリと母からの電話は途切れました。


何故か?

兄が常に母を監視し始めたからです。


私は時折気になって電話しても母の声は上ずっています。

明らかに傍に兄がいます。

「まだ仕事してない?」の問いに

「YES」と。

「わかった。元気なら良いよ。またね。」

そういったやり取りを数回繰り返しました。



ある日突然姉から電話が入りました。

「マジでアイツ無理!ママに酷過ぎる!」と。


聞くと教科書販売のセールストークについ購入すると返事してしまった母。

警察に連絡しようとなったらしいのですが、

兄は警察に報告する文章を母に書かせては却下、再び書かせては却下、そして怒鳴る、その繰り返しを一日中していたようです。


姉が仕事から帰宅すると、そんな光景が繰り広げられていたので姉は止めに入りました。

認知症の人に怒るのは逆効果だと。


しかし兄は姉にも牙を向けます。


姉はムッとして自室に戻るとしばらくして兄が来て

「姉ちゃん、警察電話してくれないかな?」と言ってきたそうです。


姉が電話をして事は収まりましたが、私はその話を聞いて言いました。


「あいつは自分で電話も出来ない訳?(笑)」


完全なるコミュ障の引きこもりの根性悪です。


私は息子たちにお金も掛かりだして仕事の合間に派遣の単発バイトを始めました。

先日は実家近くの案件が入ったので、その帰り実家に寄りましたが母は私と玄関先でしか話しません。

とてもやりづらそうな顔をしていたので、中に奴がいるな……。そう思った為、玄関先で軽く顔を見て帰ってきました。


なんで母にそんなに固執するのか?

私の時もお嫁さんの時もです。

1人ターゲットを定めると恐ろしく執拗いのです。


「お前が死んだら俺がこの家に住むから、そのように遺書を書け」と最近は言っているそうです。


えーと、一軒家も維持費がかかるんだよ?

知ってる?

働かないで家にいるだけなんて生ぬるい考えは幼い頃と変わらないんだね……。


母は今日もまた一日中説教されているのでしょうか?



私は母の状態を注視しつつ時期が訪れたら兄から引き離そうと思っています。

人任せ

父が亡くなってから、私は妹とその後の処理に追われました。

役所へ死亡届けを出し諸々手続きをして、公共料金支払い変更手続きや各種保険会社に連絡。

実家もかなり荒れており、片付けに取り掛かりました。

ここまでは誰しも同じかと思います。


父は在日韓国人の為、韓国大使館に死亡届けを出さないと罰金が発生する事を知り私と妹は焦ります。


妹に関しては誰なの?って言われた人が父だと知り「私って何?」と少し不安定になっていました。


となると動くのは私しかいません。


私も調べて大使館に問い合わせるも片言でよくわかりません。

ネットから入っても途中からハングル文字がズラリと並び訳がわかりませんでした。


しかし限られた2ヶ月で手続きをしなくてはならない。

必死でした。




警察も大使館に問い合わせて父の身分証明の照会をかけてくれていました。


やっと大使館から連絡が来て父の戸籍を突き止めると遺体引き取りの連絡が入りました。

父が亡くなって1週間経っていました。


父の遺品を受け取り父と対面しました。


妹は「なんか……………怖い……。」と足がすくんでいました。

妹は父の遺体は見ず警察の対応しかしていなかったので不安気でした。


私も不安でした。


警察の別棟にある安置所に案内されます。

徐々に白いシーツを掛けられ横たわる遺体が見えてきました。

警察の方が顔に掛けられた布を外します。


私は父の顔を見て驚きました。


死因は「急性心虚血性疾患」でした。

心筋梗塞です。

あの寒さで動きヒートショックを起こしたのです。

それも死亡推定時効は私と電話した3時間後でした。


かなり急でもあり、相当痛かったし苦しかったと思います。


それなのに、物凄く穏やかな死に顔でした。

私は開口一番「ごめんね……。」と言いました。

母は「何で?ありがとうでしょ?」どういう意味で言ったのかは今だ不明です。


警察の方も

「私も様々なご遺体を見てきましたが、こんなに穏やかなお顔をされているご遺体は珍しいです。」と言っていました。


様々な業を全て消し去るように、険しい顔で寝ていた父ではなく穏やかな父がそこにはいました。

全て捨てて逝ったように見えました。


葬儀は直送でした。

父は身内らしき人に母からお金を巻き上げ貸すも付き合いは切れ、酒癖の悪さから私の身内も関係が途切れていました。

すなわち呼ぶ人がいなかったのです。


葬儀屋さんを妹が探し、警察署まで遺体の引き取りをお願いしました。


死後約2週間で父をやっと荼毘に付する事が出来ました。


この時も兄は「仕事あるから」と顔を出しませんでした。


どこまでも……どこまでもな人間です。


父の遺体を発見した日、警察と夫が遺品を探していると

「夫くんへ……サラへ」とお正月のポチ袋を見つけたと後から夫に知らされました。


距離を取っていたのに、こんな気遣いして!

昔散々地獄を見せて来たくせに!


私は胸が苦しかったです。


父の異変を察知して、亡くなるなら皆で看取りたかった。

しかし自宅のトイレで孤独死をさせてしまった。


母と引き離す際に、そうなる可能性は高いと思っていました。

だから安否確認の宅食にもした。

しかし宅食サービスは父が居ないと思いドアノブに食事を3回分ぶら下げて帰ったのです。


「出かけてると思った」そう言われました。


父はデイサービスから帰りずっと調子が悪かったと推測出来ました。


もう誰も責める元気など残っていませんでした。


警察はデイサービスがすぐに救急要請しなかった事に不信感を抱き問い合わせると言っていました。


私はケアマネにその旨伝えるとケアマネは

「あ、慣れてるんで大丈夫です。」と返答が返ってきました。

慣れている……………。


それはそれはよう御座います。


しかし遺族に発する言葉でしょうか?


とんでもないケアマネがいるものだとガッカリしました。



葬儀を終えて父の遺骨と位牌を実家に持ち帰り父の部屋に置き私たちは帰宅しました。


次は韓国大使館……。

私は仕事中や休憩中ありとあらゆる所へ連絡して死亡届けを出す手続きの仕方を模索していました。


そこでやっと1人の行政書士に行き着きます。


行政書士の方はすぐに快諾して頂き、私が窓口となり様々な手続きが開始されました。

日本の書類と韓国大使館の書類に一部相違があれば、妹しか市役所で書類を取れなかった為、妹にも協力してもらいました。


行政書士に依頼する金額については母が負担してくれました。


しかし、ある日母が言います。

「高くない?おかしくない?」


一般的に平均額なのに……。


また兄でした。

兄が高いのおかしいだのグチグチ言い始めたのです。


「なら!自分たちでやりなさいよ!こっちは仕事中だろうとやり取りしてるって言うのに!いい加減にしなさいよ!!!」


私はブチ切れました。


ところが、そんな事で動く人達ではありません。


文句だけ言って結局は私と妹で動くしかありませんでした。


ありとあらゆる書類が届き、いざ韓国大使館で行政書士と待ち合わせをし手続きをとる日を迎えました。


父の死後1ヶ月半が経っていました。


申請もスムーズに済み妹は帰りの道中、安堵しきった顔をしていました。

「私1人だったら出来なかった……。ありがとうお姉ちゃん。」


「そんな事ないよ。色々動いてくれて助かったよ。こちらこそありがとう。」


「私さ、なんの為にあの2人から生まれてきたんだろう?」

妹が言います。

父は妹が19歳の時1度認知をしていた形跡があり、妹が結婚したあたりで認知を取り消していました。


何を意味していたのかはわかりません。


そして父は母と出会う前に結婚していたと言っていましたが、その記録はなく事実ではないと知りました。


父は幼い頃、両親が他界しており身内をたらい回しにされました。

悪烈な環境で育ち、大阪で仕事をするも上手くいかず、従兄弟を頼り上京、従兄弟の経営するスナックで長年仕事していた中フラフラと飲みに来た未亡人の母と出会ったようでした。



滅茶苦茶な出会い、、、

そんな中妹が誕生しました。


妹は今更知る事実に戸惑っていました。


時折妹は泣きながら電話もしてきました。

「もうさ、、、もう私どうしたらいいの?」と。


私は決まって言います。

「あなたが妹で私は少なからず救われた。あなたがいたから姪っ子達に出会えた。あなたには守るものがある。もうそれだけで充分。他に理由必要?」と。


妹は早くに離婚しており、母子家庭で踏ん張ってきました。

私もよく姪っ子達を預かり妹にガス抜きをさせていました。


「私にとっての実家ってお姉ちゃんちかも(笑)」


そう言わせた父と母の責任は重いと思います。


しかし妹には前を向かせないといけません。


「私……いや、うちはあなたが必要だから。大切だから。」と伝え続けました。


兄は父の暴れる時も入院も引越しも、

父が亡くなって火葬の際も、その後のすべき事も

その全てをケチだけつけて人任せにしました。

一切立ち合う事も力を貸すことも無く……


私たちに押し付け逃げました。


私は心底兄を軽蔑しました。


確かに父は私たちに酷い事をしてきました。

無抵抗な私たちは沢山苦しめられてきました。


正直に言うと「死ねばいいのに」

そう思った事も事実です。


でも、そんな人でも一緒に暮らしていた以上は、

ご飯を食べさせて貰っていたのなら、

後処理1つ出来ないのなら、

ケジメとして火葬は立ち合って欲しかったです。


残念です。




しかし、父亡き後も兄はまたしても、やらかします。。。